一番大切な人に、一番ひどい態度をとってしまう
こんにちは、精神科医しょうです。
先日の外来で、
ある方がこんなことを話してくれました。
「外ではちゃんとしていられるのに、
家に帰ると、
家族にきつく当たってしまうんです」
「一番大切にしたい人なのに、
一番ひどい態度をとってしまう」
そう言って、
その方は、
少しうつむきました。
これは、
決して珍しい相談ではありません。
職場では、
穏やかで、
気遣いのできる人。
でも家では、
些細なことで声を荒げてしまう。
パートナーの言葉に、
必要以上に刺々しく返してしまう。
言った後で、
自分でも驚く。
「どうして、
あんな言い方をしたんだろう」
そして、
自分を責める。
その繰り返しに、
疲れてしまう。
なぜ、
こういうことが起きるのか。
一つには、
人は、
安全な場所でしか、
緩まないからです。
外にいる間、
私たちは、
少しずつ緊張を積み上げています。
「ちゃんとしなければ」
「嫌われないようにしなければ」
「迷惑をかけないようにしなければ」
その緊張を、
一日中、
持ち続けている。
そして、
家に帰る。
そこは、
「取り繕わなくてもいい」
と、
心が判断する場所です。
すると、
それまで抑えられていた感情が、
一気に緩む。
つまり、
家族や恋人に感情をぶつけてしまうのは、
その人を軽んじているからではなく、
その人の前でだけ、
鎧を脱げているから、
という側面がある。
ただ、
ここで大事なことがあります。
「安全な場所だから緩んでしまう」
というのは、
仕組みの説明であって、
「だから仕方ない」
という免罪符ではない、
ということです。
ぶつけられた側は、
確実に傷つきます。
その人にとっては、
「あなたが外で疲れていたから」
という理屈は、
届かないこともある。
ただ、
理不尽に責められた、
という記憶だけが残る。
そして、
その積み重ねが、
関係を静かに削っていく。
私自身、
外来で家族の方の話を聞いていると、
「本人は苦しい。
でも、
一緒に暮らしている人も、
確かに苦しい」
という場面に、
何度も出会います。
どちらかが悪い、
という話ではない。
でも、
どちらも傷ついている。
その難しさの前で、
主治医として、
言葉に詰まることもあります。
もう一つ、
臨床で感じることがあります。
ぶつけている感情の正体は、
多くの場合、
怒りそのものではない、
ということです。
その下にあるのは、
「本当は分かってほしい」
「気づいてほしい」
「一人にしないでほしい」
という、
もっと素朴な願いだったりする。
でも、
それを、
そのまま言葉にするのは、
とても難しい。
弱さを見せることになるから。
だから、
形を変えて出てくる。
強い言葉として。
冷たい態度として。
沈黙として。
そして、
受け取る側には、
「攻撃」としてしか届かない。
本当は、
「助けて」
だったのに。
このすれ違いが、
とても、
切ないのだと思います。
では、
どうすればいいのか。
「もうぶつけないようにしよう」
と決意することは、
実はあまり続きません。
感情は、
決意ではコントロールできないからです。
そのかわりに、
私が診察でお伝えすることがあります。
ぶつけてしまった後で、
かまわないので、
「さっきは、
本当は疲れていた」
と、
一言だけ、
添えてみてください、と。
謝罪でなくてもいい。
言い訳でもいい。
ただ、
「今のは、
あなたのせいではなかった」
と伝わるだけで、
相手の受け取り方は、
変わることがあります。
そして、
それを繰り返すうちに、
少しずつ、
「ぶつける前」
に気づけるようになっていく。
「あ、今、
自分は限界かもしれない」
そう思えた瞬間、
言葉を選ぶ余地が、
生まれます。
回復というのは、
「二度と感情をぶつけない人になること」
ではないと思っています。
そうではなくて、
ぶつけてしまった後に、
関係を修復する力を、
少しずつ取り戻していくこと。
そちらの方が、
ずっと現実的で、
ずっと大切なのだと思います。
最後に。
家族や恋人に、
きつく当たってしまう自分を、
責めている人がいるとしたら。
その「責めている」という気持ちこそが、
あなたがその人を、
大切に思っている証拠です。
どうでもいい相手なら、
悩みもしません。
だから、
その苦しさを、
どうか、
自分を嫌う方向にだけ、
使わないでほしいと思います。
大切にしたいと思っているのなら、
まだ、
やり直せます。




外で張り詰めていた鎧を脱げる安全な場所だからこそ感情が出やすくなる、という仕組みの説明にすごく納得しました。ただそれを免罪符にせず、ぶつけられた側の傷つきにも配慮しながら、後から「疲れ」という本当の状態を一言伝えるアプローチはとても現実的で役に立ちます。